『春琴抄』に感動して、エッセイにも手を伸ばしてみました
谷崎潤一郎の書く日本語は美しいけれど、『春琴抄』ほどは面白くなかったですね
時代的には日本がどんどん洋風にかぶれていって、日本そのものの良さがだんだん失われている、という本
主に本書が書かれたのは1920年頃かな
『東京をおもう』は、そんな古き良き日本がどんどん洋風にかぶれてダメになっていくなか、関東大震災が起き、横浜に残した家族は無事でいるかと心配しつつ、いまの洋風混じりの東京がぶっ壊れて更地になって、ここから新しい東京がはじまることにワクワクしている、というエッセイ
これを読んで、東日本大震災のことを思いましたし、僕の地元である岐阜のことを思いました
いまでも原発の廃棄物はどうするか問題があって、みんな口には出さないけど、
大学教授とかテレビに出ているようなコメンテーターもオフレコな場では福島の東電の敷地内に埋めるしかないと言っていて、
でもそれは福島に住んでいない人の発言であって、福島を日本のために犠牲にしろ、という精神であって
で、僕の地元の岐阜って腐ったような土地なんですよ
なにもないど田舎
新興宗教にどっぷりの隣人
ムラ社会
田舎の陰湿な部分をすべて煮詰めたような土地
そんなの全部南海トラフ巨大地震がぶっこわして無に帰してしまえばいいと思っている
山口県光市のつけびしての土地も大地震でぶっ壊れればいいと思う
呪われた土地、悪習しかない土地はぶっ壊れればいい
でもそんなことを現代のネット社会で言ったら大炎上
谷崎潤一郎さんは紙しかない時代で、唯一のメディアである紙で東京の大震災に興奮したことを発信していて、
覚悟を持っていなければ『春琴抄』のような血の滲む作品は生まれなかったろうなと