日本中世史を専攻している歴史学者、網野善彦が1982年と、比較的初期に著した日本の通史。といっても、弥生時代から始まり、著者の専攻分野だった応仁の乱、戦国時代や北条早雲の活躍した時代で著述は終わる。タイトルの通り、東日本と西日本の差異やその交流がメインを占める。元々は民俗学者の宮本常一が書く予定だったのが、宮本の死去により網野が書くことになったという。
日本において東と西は方言、風習が違う。その違いは縄文、弥生の頃からあり、そして今もあるというのが網野の主張だ。
そして、網野は明らかに西の天皇に対して東の将軍、武家政権に肩入れしているというか、東国には西の王権に対抗する意識が明らかにあったとしている。それが鎌倉幕府の成立であり、武家諸法度であり、独自の年号や任官権、交通権、租税公課の権利だという。徳川家康を祀る日光東照宮の完成以前から、東国では日光が聖地として崇められていることは今まで知らなかった。また御成敗式目が西の王権を大きく意識し、緊張感を持った文体で公布されていること、そしてそうして成立した鎌倉幕府の崩壊も、後醍醐の新政ではなく、幕府内において西国をも支配するか、東国のみを支配するかの対立であったことも知らなかった。
かつて東北は、同じ東国人であった関東の武者に支配されたという恨みがあり、東北に樹立した奥州藤原氏や南朝の将軍・北畠顕家の権力が常に西の王権と手を結ぼうと考えていたこと、そして東国は西国を超えて九州と同盟しようとしていたことなどなど、1000年以上も前から、陸路や海上の航路で東と西はつながりあい、闘いあってきたのだということがわかる。
「西日本のムラ社会」、「東日本のイエ社会」が果たして普遍的なものだったのか、婿入りか嫁入りの違いが東西であったかどうかなど様々な批判もあるが、大変面白く、歴史学会にとても大きな波紋を投げかけた1冊であることは間違いない。
そして巻末の山折哲雄の解説によれば、東西の対立は今なお、東大と京大の歴史学者の対立にもなっているという。東国から網野が描く歴史像が京都でどう受け止められたのか、今なお言及があるところを見るとかなり強烈な問いかけだっと言えるだろう。