ブローティガンの自殺後に、遺族が遺品から見つけた作品。作品はブローティガンが自殺する2年前に完成していた。
このブローティガンの最高傑作は彼が死ぬまで表に出ることはなかった。
ブローティガンの作品の感想には毎回、「これは小説なのか日記なのか詩なのか…」といったことを書く。
しかしこの作品に関しては、小説でもあり、日記でもあり、詩でもある。
『アメリカの鱒釣り』や『芝生の復讐』ではこう言い切ることはできなかった。
『アメリカの鱒釣り』や『芝生の復讐』の小説・日記・詩のグラデーションはぎこちなかった。小詩説日詩記日記小説詩詩日小説記詩日記、みたいな。昔のWindowsのデフラグみたいな。
今作の文体は光の三原色の中央部分のように、「小説・日記・詩」が真っ白のひとかたまりになって延々と続く。
ブローティガンの文体が完成している。
人間の究極の文体が完成している。
ブローティガンは本作で花鳥風月や諸行無常を綴る。
そして最後に、この文章を綴ってきたノートブックの残りページがもうないことを綴る。この本の中で進行中の物語や回収してない伏線もそのままに、詩的な表現やどうでもいいことばかりを書いてページを費やしてしまう自分を信じられないと綴る。それでも、自分なりに努力したんだよ、と。
そこには先ほどまで書かれていた花鳥風月や自然、諸行無常を愛する、優しいアメリカのおじさんはいない。焦燥感に殺されそうな苦悩の作家がいる。
この作品は、ブローティガンのすべての物語への別れの作品なのだと思う。
結果としてこれが遺作となったが、もし彼が自殺を選ばなくても彼がもう作品を作ることはなかったのだろうとも思う。
ブローティガンは努力をした。しかし努力を諦めたとは思えない終わりだった。
「この本をきれいに終わらせるために努力はしたけど紙が尽きてしまった、次回は頑張るね」というニュアンスだった。
真上と言っていることが真逆だが、小説の完成形でもあり、すべてのはじまりの可能性でもある。
別に受け取るものがひとつでなくても、相反するものがあってもいい。そういうもんでしょう、物語って。