著者は日本中世史の学者・網野善彦。といっても、日本史学の本流である政治史ではなく、中世から近世にかけての漁民や流通に従事した名もなき人々や、寺社の清掃や牛馬を扱う人々などを研究していた、言ってみれば異端の学者だった。だが今も多大な影響を与えており、例えば宮崎駿のアニメ映画「もののけ姫」はタタラの民、つまり製鉄業者や牛飼い、傭兵集団といった非稲作農耕民が出てくる世界観で、網野の研究から影響を受けている。
この本はそんな網野が戦後の混乱期に東大を卒業した頃、水産庁の予算をもって日本各地の漁村の古文書を収集したものの、結局は事業が打ち切りとなり、借りっ放しにしていた古文書をその後数十年かけて返却していく記録だ。
ちなみに水産庁から業務を委託され、網野も勤務していた「日本常民文化研究所」は、2021年の大河ドラマの主人公・渋沢敬一の孫の渋沢敬三が創設している。
全国の漁村や名家から古文書を借りたまま返さないのだから、帯に書かれているように「失敗史」なのだが、返していく途中で従来の歴史観を塗り替えすような新たな発見が次々に見つかっていくという「史学史」でもある。
網野ら若き歴史学者たちは戦後の混乱期、食べるものにも欠きながら資料館設立を夢見て100万点もの膨大な史料を全国の民家から収集してくるが、事業は打ち切りになり、集めた史料は返されることなく大学などの倉庫に放置されてしまった。30年以上借りっぱなしの大切な古文書を返しに行くのだから当然書き出しは重い。だがいく先々で、地元の人々は網野たちを歓待してくれ、むしろ再び来てくれたと感謝すらしてくれた。そして新たに史料を託されたり、寄贈してくれたという。
コンクリートで固められ急速に工業化していく港湾地帯や、かつて北前船の寄港地として隆盛を誇った瀬戸内海の離島が過疎化していく現実を目の当たりにして意気消沈する網野が、返却の旅で出会った人々から励まされ、学問研究への意欲を高められ、そして自らの歴史観を改めていく。
網野が研究対象とした分野はまだまだ分からないことばかりで、我々の先祖がこの列島でどう生きてきたのか、旅に出て知りたくなるような本だ。